大分について書こうと思っているのだけれど
どうもうまく言葉にならない。
こうやって書くと陳腐になってしまうのだが、
僕個人は、新潟とともに、大分というクラブを、
なんというか尊敬しているからかもしれない。

なので(残された時間は少ないが)それについては
言葉が満ちるまで待ってください。

そんなわけで、残念ですがまたサッカー以外の話。
結論は、この前のダムの話と基本的には同じです

鳩山内閣の「閣内不一致」が取りざたされている。
おもに、普天間基地問題でだ。
「この内閣はレトリックばかりが発達する」、
っていうのは、沖縄の仲井真知事の言をもじったものだけれど
個人的には、なんというか、
「言い訳に品がない」、とは思う。

ほとんどの人がそうだと思うのだけれど
「マニフェストの逐語実現」を僕らは求めちゃいない。
大切なのは、それを実現しようとしたができなかったとして
それに対する説明責任を真摯に実行できるかだろう。

「岩国があって、グアムがあるので、
 辺野古沖はマニフェスト違反にならない」

すげえレトリックだと思う。
けれども、誰の心もうたないレトリックだ。
誰もそんなものをもとめちゃいない。
かつてないほど「言葉」にこだわる内閣だ。
所信表明演説でも思った。その意図はわかる。
「論戦の府」の変化は、その言説に表れなければおかしい。
そもそも、表明では総論、抽象論で
大枠を示そうとしていたのだろうから
具体性が云々とは言わないし、空虚だとも思わない。

けれど、「型にはまらない」という型に
はまってしまった、とは感じた。
それは「政治主導」「官僚によらない」という型だったり
掲げた「マニフェスト」という型だったりだ。

元来、その信仰する「枠」を掲げて戦っていたのだから
言語がそれに殉ずるのは、それでまっとうだとおもう。
でも、結果として「枠」自体が強固なものになってしまい
その「枠」を変えることはできず、
だからか、枠の見せ方や目線の変え方の技術が発達する。

そういうことは、これまでの政権でも何度も繰り返されてきたし、
政治手法を正しく伝えうる修辞技法は確実に必要なものになっているので
不必要だとは思わない。

でも、実際には(今までのように)
レトリックだけが重ねられ、本質に厚化粧を続けている。
本来の政治主導とか、国民目線というものは
伝え方云々を示してどうこういうのではなくて
いまある現実を、正確に、
明確になるまで削り取って示すことなんじゃないかと思う。

僕は、現実を修辞や数字でつぎはぎして
なんとなく答えることこそが、いわゆる
「事なかれな」「官僚的な」ものだと思う。

たとえば沖縄問題について
僕が求めているのは、仮にマニフェストに違反したとして
真に沖縄の住民と国益とを考慮に入れた上で出した、
血のにじむような結論と、それを実現するための断固たる決意だ。

日本郵政人事が天下りだって別に構わない。
真に必要ならば、今後の実績で判断されるべきだろうと思う。

でも、それを「マニフェスト違反じゃない」とか
「天下りじゃない」と言い張る技術こそが
真に削るべき「官僚的な技術」なんじゃないかな。

答弁を官僚がつくったっていいんですよ。
政治を語るものが技術的な、つまりは、
官僚的な答弁をしさえしなければ。

言説を脱官僚化してほしい。
それこそが、国会の脱官僚化だと思うのです。